7月22日 集団自衛権意見書反論演説原稿

7月1日、集団的自衛権が閣議決定されました。
午後6時からの安倍首相の記者会見を拝見していましたが、誠に立派だったと思います。
「人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは思えない、いかなる事態があっても国民の命と平和な暮らしは守り抜いていく」と言明されましたが、よくぞここまで貫き通した、と。
そして、日本の安全保障環境の厳しさを直視し得ないまま、集団的自衛権容認反対を叫ぶ人を見るに付け、事実認識と価値判断の関係について、あらためて戦後日本の教育の弊害を思ったところです。
今回の集団的自衛権容認について、日本国憲法に定める手続きに従って行われた正当な正式の政治決定について、これ以上の反論に何の意味があるのでしょうか。そもそも自衛権行使に当たっての判断は、法理上は内閣の行政権に属することであります。
従って、今後、関連法案の国会審議を経て法的整備が進められることになります。7月14日には衆議院予算委員会で、15日には参議院予算委員会で審議が行われてもいます。現段階で、47都道府県と20政令市のうち38議会が集団的自衛権支持の決議を行っており、関連17法案は来年の通常国会に上程予定です。
立憲主義に立つなら政治決定された事に従う、これが法治国家の国民の取るべき態度であり、地方議会の信義であると思います。最終的な反論は、日本国憲法は選挙により事を決するであります。
私は、この陳情に対し、失礼ではありますが、あまりにも歴史的事実を歪曲し、かつ、偏った見方で採択を迫るものであり、日本国憲法に定める手続きに従って選ばれる議会制民主主義を否定しているのではないかと拝察するものであり、反対の立場で表明いたします。
まず、「内閣の解釈変更で憲法の考え方を変えることは憲法の最高法規性を奪い、政府への国民の信頼、国際的な信頼も失う」という指摘に対しては、ご承知のとおり日本国憲法の解釈は時代とともに内閣で解釈変更がされてきたことは歴史が示すとおりであり、この陳情は歴史的事実に対する無知か、歴史の改竄若しくは捏造であります。
終戦直後の吉田内閣の時代は「自衛権の発動としての戦争も交戦権も放棄」であり、50年代・60年代は「自衛のための抗争は放棄していない、特別な関係にある国が武力攻撃された場合、その国まで行って防衛するという意味の集団的自衛権は持ってない」が、70年代以降は「国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置を取ることは禁じていないが、必要最小限の範囲に留まるべきで、集団的自衛権の行使はその範囲を超えるものであって憲法上許さない」と解釈の変更がなされて来ており、時代とともに変容しているのが事実です。
なお、昭和21年の段階では、日本共産党は「侵略など不正の戦争と自衛のための正しい戦争があり、戦争一般を放棄してはならない」と主張していました。
そこで、問題となるのが個別的自衛権と集団的自衛権の解釈、取り扱いです。
ご承知のとおり、日本国憲法は、集団的自衛権を否定してはいませんし、条文に何らの記述もありません。
むしろ、国際的には自衛権として個別的、集団的とも国家固有の権利としてその保有が保障されているのです。
国連憲章第51条にその規定があります。武力攻撃を仕掛けて来る国に対しては、共同して自衛権を発動出来るということを国際社会は認めている国際法です。国家として本来備わっている自然権としての固有の権利であり、日本も例外ではありません。
国際的には、集団的自衛権とは「集団によって集団的自己を防衛する概念」という説が主流な見解です。
 卑近な例として、いじめやパワハラなどから防御するにはどうすればいいでしょうか。正解は、助けてくれる人が必要だ、と分かると思います。いじめのアンケート調査で対象となるのは、「弱そうに見える」というものでした。集団的自衛権とは、こうした事態に遭っている事から周りの人の力を借りて対抗することです、集団的自衛権を拒否すれば、いじめやパワハラからの対抗は、自分で力を付ける、腕力を持つ、狡猾に立ち回る、以外にありません。
 集団的自衛権は、国連憲章策定時にラテンアメリカ諸国の要請で制定されたものです。安全保障体制が十分機能するかどうか国際社会の冷酷な現実を見据えた中で、小国として生き延びるための戦略から生まれた知恵でした。実際、現場で指揮権を握っている者ほど、今回の集団的自衛権こそ安全保障の効果は高まる、と証言しています。
 「拡大解釈されて日本が戦争に巻き込まれるのではないか」と、まことしやかに囁かれますが、この主張は、まやかしです。
第一に、現代戦はコンピュータシステムによる電子戦、サイバー戦で、専門的に訓練を積んでいる者でなければ不可能な、そういう点で専門家による戦争です。日本国においては、素人である国民はそうした場所いわゆる戦闘地域の最前線にいません。「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、以て国民の負託に応えることを誓う」と宣誓した特別権力関係にある者のみ、つまり、国家の命運を一身に背負うと覚悟した、国の名誉に懸けて戦うという気概を持った、そういう国民が処理に当たります。
第二に、一般の国民がそれに巻き込まれるという場合は、日本が国際法違反状態で侵略された時です。従って、現代戦の特徴であるミサイル等による空爆あるいは原子力爆弾等で壊滅的な状態の場合です、昭和20年の空襲体験で物語っているのでしょうが、米軍のそれは明白な戦時国際法違反事項で、東京裁判の基準ではC級に該当する戦争犯罪行為と言えるもので、現代社会では有り得ないことです。
第三に、ましてや日本の国内で「無辜の国民」が武器を持って戦うことはありません。日本国憲法は国民の武器所有を禁じており、違法行為に当たるからです。
そういう点で、こうした主張は軍事学や戦争論を知らない意見です。
少し考えてみれば分かることですが、戦争とは相手があっての事です。で、今、日本を取り巻く環境の中で、日本国が戦争を仕掛ける要因がどこにありますか。「中国を刺激したら不測の事態が起きる」と言う事を聞きますが、何も反撃しない、出来ない、弱い、と見られる事の帰結です。
物事には動機が必要です、そして実行する行為、それを命令するものが必要です。どうでしょうか。すべてを満たす要因がどこにありますか、「為にする」議論です。
いわんや、今、論議の渦中にあるのは、我々町議会議員という政治家です。国家の命令は、日本国憲法の規定に従って権力の行使の負託を受けた政治家が、その受託された権限に基づき発令します。我々は、政治家として発令する立場にあります。その我々が、戦争を望んでいると自らを断言しますか。
さらに、「国民的論議を深めるべき」という指摘に対しては、論理矛盾と言わざるを得ません。
片や国民的論議を深めよ、片や採決で、求められた事項の理解が不明確で議会の審議も十分ないままに国家的課題を一介の議会で即決を迫るのは、不可解であり、「論議を深めるべき」なら、同様に町議会に対しても、「議員が議会での論議を深めるべき」という意見書を提出されるのが筋であり、反対基調のこの意見書は公正公平なものとは言えません。
我々としては、少なくても継続審議として慎重な対応を取るべきであります。
立憲主義の立場を取る限り最も重要なことは、憲法に則って政治を行うということです。それは正当に選挙で選ばれた者が負託された権限に基づいて行使ということです。これが本来のシビリアンコントロールです。
そういう意味で、従前行われてきた内閣の下部組織の一員である内閣法制局に、その解釈の全てを委ねてきたということは誤りであり、日本国憲法違反ではないでしょうか。これは、戦前の例を捉えれば一目瞭然ですが、戦前は、内閣の一員である軍部の独走を許し、政治が解決すべき外交がゆがみ、戦争への道を走った苦い思い出がありますが、戦後も、政治のシビリアンコントロールつまり政治上の権限を有する内閣で判断すべきことが、行政職の公務員である官僚に判断権限があるかのように操られてきたことは適正ではなかったということです。
そういう点で、私は、安倍政権下で初めて日本国憲法に則った政治が行われるようになったと理解しています。
今、地殻変動が起きています。
昭和26年のサンフランシスコ平和条約で定められた戦後国際秩序が、中華人民共和国等の動きで大きく様変わりして来ている状況に、国民の多くは、不安を覚え、世界の変化を敏感に感じています。日本国憲法の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」と、我々が教えられて来た世界観に違和感を持ち始めたことが、現代日本の国民感情の深意です。
昭和24年に中国大陸に成立した中国共産党の支配する中華人民共和国の異常な威嚇的行為は、「帝国主義」の論理そのものであります。建国の父、毛沢東共産党主席は「政権は銃口から生まれる」でありました、その言葉は今も変わってはいません。それがこの国の本質で、日本は、衣の下に鎧の国と対峙しているのです。そうした中で、経済成長が頭打ちになり、その矛盾を海外に転嫁しようと、尖閣諸島で日本に戦争を仕掛けてくるおそれが増しているとの国際学者の見解もあります。
日本国憲法の虚構性、フィクションに目を瞑り黙っていた「物言わぬ国民」から脱却し、「ノー」を言い出したのが、今の国民の世論、常識ではないかと思います。
 インターネットの普及も大きいと思います。真実が何か、本当の事は何か、が、瞬時に流布し、漠然と感じていたことが、決して独り善がりではないということが伝わりだしたからです。
 マスコミも少し煽りすぎだと思います。集団的自衛権の論議が即戦争に結び付くかの如くの報道はいかがなものかと思います。
戦前、戦争への道を煽ったのは、実は今の朝日新聞や毎日新聞でした。これは戦前発行された新聞記事を検証すれば直ぐに分かります。戦前、朝日新聞は戦意高揚のための歌を国民から募集、「兵隊さんよ、ありがとう」であります。
今の反対論調の展開は、この裏返しですが、大半の国民はマスコミの嘘を見抜いています。身の危険を感じ本能的に避ける、動物が当たり前に持っている自己防衛本能が、今、日本人にも作動しています。最早、このままでは我々の生活が危うい。

「平和だ、日本人が何もしなければ世界は平和だ」、かつての言葉でした。こういう論理は、今は通用しません。国際社会の現実を見すえない論議は、空想的平和主義、ファンタジーの何物でもありません。
占領下の法律変更を禁止しているハーグ陸戦条約という国際条約違反のGHQ押し付けの日本国憲法が、想定したスキームは、最早、今の国際社会には存在しません。
そうした中で、集団的自衛権が検討されているのです。
憲法条文の文理解釈で可能かどうか、今、検討されている事はそういうことであり、国民の生命や財産を守るという国家として当たり前の事が現行の日本国憲法で不可能なら、憲法改正で行うしかないということになります。
国家の安全保障について、国際情勢や法理論などに十分な論議を行わずいた戦前の情緒的論調と同じ踵を踏むものではないかと思います。むしろ、最高法規である憲法の安定性に揺らぎが生じ兼ねない程度の条文でしか記述されていない憲法であるなら、時の内閣の恣意の解釈不可能な厳格に規定された新しい憲法を、共に創ろうではありませんか。そもそも、その出自に正当性が疑われ、「占領政策基本法」とも評される日本国憲法を、一字一句修正もままならぬという頑なな思考より、遥かに未来志向だと思うところであります。
「自由と民主主義、法の支配」の日本国憲法の求める人類の普遍的価値が共有できる民族や国々と行う平和を創る共同作業が、集団的自衛権の持つ真の意味であります。
日本人はだれも戦争は望んでいません。
日本人は歴史的に見て、聖徳太子の17条憲法に見られるように古来から「和を以て貴しと為す」であり、我々のDNAは戦争から最も程遠い民族であります。戦いは最も不得手、不得意とする分野であり、皆と仲良くしたい、そういう性格の持ち主であります。
そういう中で、それでもせざるを得ない、集団的自衛権を考えざるを得ないという真に不幸な状況下にあるといえます。
福澤諭吉は、脱亜論でこう言いました。「我日本の國土は亜細亜の東邊に在りと雖も其國民の精神は既に亜細亜の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に國あり、一つを支那と伝い、一つを朝鮮と伝ふ。我は心に於いて、亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と。
因みに、福澤諭吉は我が国紙幣の最高額1万円を飾る肖像その人であります。
非常に残念の極みでありますが、今の日本はこの言葉が言い得て妙です。世界が平和であったらどれほどいいか、日本人誰もが希求するところであろうかと思います。しかしながら、というのが現実であります。
日本の政党で集団的自衛権反対は、世界の国で、日本の集団的自衛権に反対しているのは、中華人民共和国と大韓民国の二か国であります。アジアでは、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、ベトナム、マレーシア、タイ、インドネシアが日本の集団的自衛権を支持しています。特に、ベトナムやフィリピンは強く望んでいます、ご承知、南沙諸島、西沙諸島で中華人民共和国の侵略的行為に当面し、苦慮している国々であり、日本にアジアのリーダーとして指導してほしいという思いからです。新聞論調とアジアの国々の思いに相当に差異があります。
戦争に至らしめない状況を創るのが政治であり、それを行うのが我々政治家の役割です。
言いがかり、難癖を付けて、意のままにする行為に対し、毅然として立ち向かうのに、武力を持たずにできればどれほど有難い事でしょうか。
目の前に起きている現実から目をそらすことなく、起きうる最悪の事態を想定し、あらゆる角度からの選択肢で対応可能な方法を創り出していくのが我々の使命です。
正しい歴史認識に基づく、日本国の立ち位置と法体系の構築に努める、今そういう時期に来ています。
土佐には、関が原で敗れ改易された長宗我部の土着の思想があります、敗戦者なるが故の支配された苦渋。それが幕末に甦り、維新の原動力に、明治期には自由民権の運動になりました。土佐人はそうした虐げられた中に、次への思想を醸成しエネルギーが蓄積され、ここぞと思う時に噴出して来ました。
欧米列強に植民地化の脅威に晒され、今以上に危機的状態であった幕末、坂本龍馬はかくして行動しました、「今一度、日本を洗濯致し申し候」と。龍馬は、平和的解決を基本的方針としていましたが、いざという時には戦うことも辞さず、明治新政府の指針となった新政府綱領八策には陸軍や海軍の条項を設け、事を収める武力の備えを説いています。
集団的自衛権が意味する日本の存立が全うされ、国民の生命や自由、国民の幸福追求の権利が守られる体制について、現行の日本国憲法がその任を果たしえないのであればいかにすべきかを含め、国家の安全保障を考える時代に来ていると思います。


 

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プロフィール

佐竹敏彦(さたけとしひこ)

田舎の宝を取り戻す!

昭和26年7月11日生まれ、上ノ加江小中学校、須崎高等学校、高知大学卒業。高知市役所に35年勤務。

高知市社会福祉協議会の職員としての経験やノウハウを活かし生まれ故郷中土佐町の発展を目指す。

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